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成田屋通信
2005年12月07日
入院日記27

入院日記が更新されました。今回で入院日記はしばらくお休みとなります。  もうかなり長い病院生活だが、体重に変化がない。もう少しスマートになって退院したいと願っているが、ようやく外出が出来るようになり、外出して外で食事をすると、病院生活の中で、耳掻きで削るように減らした体重が、買出しのリュックサックに鉛でも詰めて帰ってきたように増える。 そこで、ストレッチをしたり歩いたりする。
 この病気は、ただおとなしく寝てればよい訳ではなく、適度な運動が必要らしい。勿論抗がん剤を投与して体力が落ちている時は、運動どころではないが、抗がん剤の効力がなくなり、自分の力で造血ができて、血中の白血球やヘモグロビン、血小板の数値が正常に戻れば、軽い運動により、体力や免疫力を高める必要がある。
 今回の治療では、抗がん剤は使ってないが、体力を高めようと毎日夕方になると、病院の屋上にある遊歩場で散歩に精を出す。
 遊歩場は病院の屋上にあるが、周りのビル群が高く取り囲み、階段を登って遊歩場に出ると、ニューヨークのビルの谷間の、錆びた金網に囲まれた隅に古いバスケットボールのボードが立っている広場に出たようで、ちょっとしたニューヨーカー気分になる。
 さすがに、時折ビルを通り抜けるぴりっと体を引き締める風が、秋の空気を感じさせる。
 バスケットボードこそ立ってはいないが、幅が5メートル、長さが30メートル位の屋上に人工芝が敷いてあり、錆が少し出た金網に囲まれ、外に空調の機械が唸り声を上げている。普段の生活と違う環境で散歩をすると、ニューヨークのグリニッジビレッジかソーホー辺りを散策する気分で、ただ歩くだけでは気が済まず、後ろ向きに歩いたり、蟹の横這いをしたり、歩幅を目一杯広げて歩いたり、一本の線の上を歩くモデル歩きなど、体操と散歩を兼ねた歩き方をして、気分を変えている。
 ある時、私より少し年配と思われる男性の患者さんが、点滴スタンドを携え、娘さんらしき女性に連れられて遊歩場に現れた。
 歩いていると、遠くからにこやかに、頭を下げられた。
 私も頭を下げ近づくと、
 「こんにちは、入院日記拝見しました。」
 「そうですか。ありがとうございます。」
 「わたしも、同じでして。」
 「白血病ですか。治療はいかがですか。」
 「移植をしました。」
 「自家移植ですか。」
 「いいえ、同種移植です。最初は順調だったのですが、暫くして酷い目に遭いました。でも、やっと良くなり、今日初めて出て来ました。」
 「良かったですね。」
 彼には、厳しかったであろう治療を乗り切った自信と誇りが溢れ、背筋をしっかり伸ばした立ち姿と笑顔には、これからの人生が明るく晴れ渡っていることを予感させるに十分なゆとりがあった。
「お互いにがんばりましょう」との言葉を交わして、親子連れの二人はエレベーターに乗って病室に帰っていった。
 何気ない立ち話であったが、白血病患者同士の会話には、言葉のやり取り以上に、お互いの治療体験が裏にあり、一言の重さや感じ方が今まで経験した会話と一味違っていた。
 彼の姿を見送って、何となく嬉しさと満足感が私の中を漂った。
 他にもいろいろな患者さんと合ったが、会釈だけで言葉を交わすことはほとんど無かった。
 私はいつも同じ時間に散歩をしたが、同じ時間に散歩をしている人は少なく、会話を交わした親子連れの二人にもその後会っていない。
 遊歩場があまりに殺風景で気に入らなかったのか退院なさったのかは知らない。
 二人を見送り、運動が終わって、遊歩場に幾つか置いてあるベンチの一つに腰をおろした。横には植木鉢と言うべきかプラントポットというべきか、私の知識では正確な名称は知らないが、いま流行のガーデニングに良く使われる植木鉢が置いてある。一つの鉢に雑然と4、5種類の小さな花と、薬草の様な草が植えてあり、マリーゴールドと書かれた竹のへらが刺してあった。手入れは余りされていないようだ。長い闘病生活なら、いっそ私が手入れをやろうと思ったが、この病気に土いじりは禁物なので諦めた。
 ベンチに何となく座って、親子連れのことを考えていたら、ジャン・ギャバンが主役のジャン・バルジャンに扮した、ビクトル・ユーゴーの名作『ああ、無情』の映画の一場面を思い出した。
 脱獄囚のジャン・バルジャンがミリエル司教の情けに触れ、人の道を知った。その後、彼は市長まで昇り詰めるが、元囚人であることが発覚して失脚する。しばらくすると「パリ郊外に老人と若い娘が散歩する姿が見受けられるようになった」とのナレーションがあり、大きな俯瞰(ふかん)で散歩してベンチに腰を下ろす二人が映る。どう見てもジャン・バルジャンと、訳があって養女に迎えたコゼットだが、ナレーションは説明しないし、顔も分からない。しかし、なぜかこのシーンが私の脳裏にはっきりと焼き付いている。私には、このシーンに流れる時間が不思議に心地よいからだろう。そんな感慨に耽りながら、目を上に向けた。
 空の方は、今年の秋も火星が2年ぶりに接近するが、なかなか秋らしい澄み切った空は望めないようだ。
 一方治療の方は順調で、再入院はあるものの、最初の治療は完了する。暫くの間退院するので、この入院日記もしばらく休ませて頂くことにします。長い間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。
                       市川 團十郎