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團十郎事典 な行
な行目次
な: 成田山 なりたさん 成田仇討 なりたのあだうち
に: 仁王襷 におうだすき 二九亭十八 にくていとおはち 二銭団州 にせんだんしゅう 二本隈 にほんぐま
成田山<なりたさん>

 祖先は甲州出との説もあるが、初代團十郎の父は成田近くの幡谷<はたや>出身、しかも家の栄えの基礎は、出身地の守り神、不動尊にまつわる宗教劇のお蔭だったから、市川宗家の成田山信仰は根強いものがある。屋号の成田屋も勿論これに由来する。今でも代々團十郎襲名は成田山新勝寺でお練り<おねり>が行われる。初代は成田不動に願をかけ、二代目をもうけたという程、因縁<いんねん>浅からぬ両者だ。

成田仇討<なりたのあだうち>

 荒磯会の第4回に十代目海老蔵(現團十郎)が演じて以来、お目にかからない珍しい狂言。
 本名題<ほんなだい>は『櫓太鼓成田仇討<やぐらたいこなりたのあだうち>』とあるように力士の芝居で、以前師匠殺しをした相撲取滝見山は、卑怯な手で雲の戸十右衛門を土俵で殺す。雲の戸の遺児は桂川力蔵と名乗り、父の仇を討つため成田山で断食修行の後、神の加護で宿願<しゅくがん>を果たす。市川家と成田山との結びつきを強調した筋だ。

仁王襷<におうだすき>

 紅白だったり、紫白だったりするが、中に針金を入れて、結んだ先がぴんと上向くようにした襷<たすき>。
 『義経千本桜<よしつねせんぼんざくら>』の鳥居前<とりいまえ>の忠信<ただのぶ>、『奥州安達原<おうしゅうあだちがはら>』三段目の宗任<むねとう>など。
 力紙と同じ趣意で、力を誇示している物は、すべて天へ突き上げるのだろう。

二九亭十八<にくていとおはち>

 七代目團十郎くらい名前を幾つも持っていた人も少ない。新之助、海老蔵は勿論、成田屋七左衛門、幡谷重蔵、俳名<はいみょう>として、三升、白猿、夜雨庵、壽海老人子福長者まで他に歌舞伎十八番の数をもじって、二九亭とも称した。
 後に、十一代目が、昭和39年5月、歌舞伎座で作者としてペンネームを二九亭十八と、更にもじり、『鳶油揚物語』という喜劇を創った。
 外見に似ず、穏れたユーモアの持主だった事はそれでも判るが、子息の海老蔵氏(現團十郎)は、
「あの時、父は一生懸命原稿用紙にむかっていたのはいいんですが、一枚書くと私達に読ませ、面白いだろうというのですが、筋がさっぱり判らず困りました」と苦笑した。

二銭団州<にせんだんしゅう>

 二銭で見られる團十郎(九代目)という意味で、明治30年前後、向柳原の柳盛座で、活躍した板東又三郎を指す。同座の木戸銭は二銭だった。
 声や顔が九代目そっくりで、自分でも意識して團十郎の当り役『酒井の太鼓<さかいのたいこ>』などを真似したという。明治32年、念願が叶い歌舞伎座へ出演したが成功はしなかったようで、数年後歿した。女団州といえば名女役者市川九女八と、そっくりさんが通用するのは本人が偉大だからで、後年、政界の団十郎まで出現するとは御本人も思うまい。団州とは仮名垣魯文が西郷南州にちなんで團十郎を有喜世新聞に団州と書いたのを面白いと思い、その後、号にしたと九代目自身が述べている。

二本隈<にほんぐま>

 目張りの紅と同じカーブで、眉のつけ根から額の左右へ、紅筋がもう一本画かれ、やや分別ある勇者の感じがする。「車引」の松王丸のように。
 似た書き方に「芝翫筋<しかんすじ>」がある。これは額への筋が、眉の中ほどから出発している違いが第一。踊の『供奴<ともやっこ>』。

※昭和60年1月発行 演劇出版社『演劇界増刊 市川團十郎』より転載。
編:藤巻透、イラスト:椙村嘉一

(昭和60年十二代團十郎襲名当時の記事ですので、若干時間を経てしまった内容もありますが、
極力当時のままの文章で載せさせていただきました。
転載をご快諾下さいました関係者の方々に、この場をお借りいたしまして厚く御礼申し上げます。)